竜下館(大田原市南金丸)
「りゅうか」と読み、「龍花」とも書く。多分、「要害」が訛ったものと思われる。
黒羽市街地から国道461号線を西に2qほど行った南金丸馬場地区にある。
相の川の南に位置し、北岸の「根古屋館」と対する。

北には「白旗城」が望まれる。
すぐ西500mが道の駅「那須与一の郷」である。

館のある場所は現在、耕地整理されてしまい水田になっており、明確に遺構と判断できるものはない。
立派な石製の城址碑がポツンとあるだけである。
土塁の残痕のようなものがあるが、土塁なのか、ただの工事の残土を盛り上げたものか分からない。
民家が1軒あり、北側が土塁っぽく感じるが、そこまでが館域なのかなんとも言えない。
相の川を挟んで、北が根古屋館であり、2つの館がペアになっていたような感じでもある。
根古屋館も金丸氏の館なので分家の館かもしれない。
金丸玄番が築いたという。
参考:那須の戦国時代、栃木県の中世城館跡、航空写真は国土地理院が昭和50年に撮影したものを使用

館跡航空写真、遺構はほとんどない。 南から館跡。土塁のようなものがあるが・・ 田んぼの脇にポツンとある城址碑

築地館(大田原市黒羽向町字築地)

「大館」「大築地」「枡形」ともいう。
白旗城の東800m、黒羽市街地から県道182号を約1.2km、北西の黒磯方向に走行した道路右手(東)にある。
ここは東に那珂川を望む河岸段丘上である。

県道からは畑や宅地の中に古墳のようなものが見える。これが館の土塁の残痕である。
何か所か確認できる。

遺構はこの程度であり、ほとんどは宅地や畑となってしまい湮滅している。

那須氏の祖、須藤権守貞信が平安時代の後期に築き、未完成の状態のまま、神田城に移ったとも、その子孫、那須与一の父、那須資隆の築館ともいう。
規模としては南北280m、東西180mというので、神田城よりはるかに巨大である。
ただし、どうも単郭の館ではなく、連郭式に2つの曲輪が存在していたようである。
また、土塁にも折れが見られたというので、神田城、同様、戦国時代にも記録は残っていないが、使用されたいたようである。

参考:那須の戦国時代、栃木県の中世城館跡、航空写真は国土地理院が昭和50年に撮影したものを使用

水口館(大田原市町島字水口)
大田原城の北1.5km、蛇尾川東岸の水田地帯にある。「みなぐち」と読む。
町島公民館の南側にあるが、立地が少しおかしい。
東側の方が高く、その丘に立つと館内が丸見えなのである。
どうも周囲の湿地帯を要害としていたのではないかと思われる。

左の写真は昭和50年国土地理院撮影の空撮写真であるが、土塁と堀跡が明確に確認できる。
立派な土塁であり、その高さは3mほどある。
しかし、水田開発で崩され、北側と西側の一部しか残っていない。
元々は75m四方ほどあり、北東隅が鬼門除けで欠けており、その周囲に幅20mの堀、さらにその外に土塁があった。
総計100m四方の大きさがあった単郭の方形館であったらしい。
現在、北側の土塁間に隙間があり、虎口かと思うとそうでもないらしい。
ここは農業用に切り崩したものである。
では、虎口がどこだったのだろう。
かつて西側に馬出のような曲輪があったのでこの方面かもしれない。
しかし、この方面に土塁の切れ目はなかったようである。
じゃあ、一体、虎口はどこだったのか?

この館は、大田原城に移る前に大田原氏が居城としていた館という。
康清の代、明応3年(1494)の頃と言う。
天文12年(1543)に大田原城を築き移っており、50年ほど居館していた。
さて、その後はどうなっていたか?
おそらく、現在でもこれだけの土塁が残存しているので、一族か家臣の館として存続していたものと思われる。
そう言えば、茨城県大子町にある佐貫館の城主は大田原氏に敗れて、町島から移ったという伝承がある。

しかし、町島氏がいたという水口館が荒井館であり、この水口館は大田原氏が新規に築館したものという。
(那須の戦国時代、栃木県の中世城郭跡 参考)

荒井館(大田原市荒井字堀の内)

水口館の北300mという至近距離にある。
公民館の前の道路を挟んで、反対側である。
ここも土塁の一部が水口館の北側に向かい合うところにある。

下の写真は昭和50年国土地理院撮影の空撮写真であるが、土塁が写り、堀跡が水田として残っている。
航空写真に写るの右下のコーナー部が右の写真であり、コーナー部が櫓台のように盛り上がっている。
水口館より若干小さい単郭の方形館であったようである。

明応年間に荒井志摩守によって築かれたという。
荒井氏は大田原氏との戦いに敗れて滅亡。大田原氏は一時的にここに住んだようであるが、直ぐ南に水口館を築いて移りすんだ。
なぜ、この館を放棄して、直ぐ南の低地に館を築いたのだろうか?
この荒井館の方が防御性に劣っていたのだろうか?
それとも荒井氏の祟りがあったのか?その後、
廃城となったというが、この荒井氏の一部は大子に逃れて町島氏となった。
その荒井氏こと、町島氏の水口館がここであった。
(那須の戦国時代、栃木県の中世城郭跡 参考)

福原要害と福原城(大田原市福原)

福原要害は、福原の集落南西側に南東側から箒川方面に突き出た尾根の末端部にある福原城の詰めの城である。
城のある山の標高は200m、福原の集落の標高が155m、箒川の水面標高が140mほどであるので、集落からでも45mの比高がある。
大した比高ではないので簡単に城まで行けるかと思うがこれが結構難物である。
第一、山まで上がる道がない。これは定石どおり藪の強行突入でカバーできる。


山の先端部が竹林であるのでここを入ればよい。
ただし、竹の子シーズンは泥棒に間違われる可能性があるので避けた方が良いかもしれない。
藪が酷いのは取り付きの部分のみであり、竹林内部はそれほどの藪ではない。

しかし、勾配が急で登るのが大変である。
ちなみに城から下りる時、足を滑らして斜面を滑落するというぶざまな結果となった。
みっともない姿であり、誰も見ていなくてよかった。

斜面の途中に井戸跡のような窪みがある。
5分ほど登り、頂上部に近づくと平坦地が現れる。
二郭東の曲輪群である。二段ほどになっている。
二郭には東側に回り込むと虎口があって郭内に入れる。
二郭東の曲輪群からは5mほど高い場所が二郭である。
それほど大きな曲輪ではなく、40m×30mほどの広さである。
西側と南側に高さ2mほどの土塁が取り巻き、南西端が櫓台のようになっている。
この櫓台に登って周囲を見てあっと驚く。
二郭西と東から延びる横堀が合流し本郭西側に延びている。それも幅は15mはある。
二郭西側の横堀は二郭から6mほどの深さがある。北側と東側で横堀は竪堀となる。
本郭の西側の横堀は本郭の南側を回りこみ東側斜面を下って行くが、堀底は凸凹しており、井戸か障子堀があったように思える。

本郭南側の堀底から見る本郭は高さ10mはある壮大なものである。(上の写真)
堀の南側には土塁があり、2本の堀切で南側から延びる尾根を断ち切っている。
堀切は竪堀となって斜面を下る。

本来の登城路はどうもこの西側に延びて行く堀沿いか堀底ではなかったかと思う。
ちょうど本郭の南で土塁が開いており虎口のようになっている。
本郭南端の櫓台によじ登るが登ってびっくり、ここは土塁どころか尾根の削り残しといった感じである。
本郭内はこの北側であるがこの櫓台から見下ろすとまるでクレーターである。

櫓台からは郭内までは深さ8mはある。この尾根のような土塁は本郭の西側と南側を包むようになっている。
東側には土塁はないようであるが確認できない。
本郭は直径50mほどであろうか。本郭の虎口は北側の二郭側に面してある。

本郭内部は久米城の本郭に匹敵するすさまじい藪である。
侵入は不可能である。ここはかつては畑となっていたそうである。
本郭の南東側にはいくつかの曲輪があり、その間を竪堀が仕切っている。
那須氏の城の堀の凄さは共通であるが、その中でもこの城は出色である。

それにしても、とてつもない工事量である。これを人力で掘ったのは信じられないくらいである。
しかし、堀を掘った時、出た土を山の斜面に棄てた形跡はない。
土塁や曲輪造成に使ったとすれば、堀の造った時に出た土を本郭南側の土塁として積み上げない限り収支のバランスが採れない。
こう考えると本郭の土塁は削り残しの尾根ではなく、堀を掘った土を積み上げて造ったことになる。

現在の土木力ならともかく、これを本当に人力で行ったのであろうか。
本郭南の壮大な土塁、堀、堀切は南に続く山地からの攻撃に備えたものであろうが、それなら南側に続く尾根の最高箇所に主郭部を置き、この城付近に出城を置くだけで十分と思うのであるが。
その点でこの城は非常に無駄な労力をかけているようにも思える。

二郭を東下の腰曲輪から見る。 二郭内部と西側を覆う土塁。 二郭西側に横堀。
この先で竪堀になる。
本郭(左)西側の堀底。
結構凸凹しており、障子堀状になっている。
本郭南側は巨大な堀切と土塁
で尾根を遮断する。
本郭南の堀底。
この付近で堀は2つに分岐する。
本郭南の櫓台。
尾根の削り残しかと思ったが、
どうも積み上げたものらしい。
北西の福原集落方向から見た城址。
先端の竹藪が目印。ここから登れる。

那須氏の宗家は一時は福原城を居城としていた。
応永年間、福原城の那須資之と弟の沢村城の沢村資重が何のきっかけかは不明であるが対立し、那須氏は福原城の「上那須家」と沢村城の「下那須家」に分裂し、内紛状態となる。
沢村城の資重は上那須氏の攻撃に耐えきれず、烏山に本拠を移す。

両家の紛争は大田原氏等の支族や佐竹氏、白河結城氏も巻き込み、複雑な経緯を辿るごたごたの戦いとなる。
しかし、永正11年(1514)、下那須氏に付いた大田原氏らの攻撃で福原城が落城し、上那須氏は滅亡する。

この話がどこまで真実かは分からないが、この戦いにおいて福原要害はどこにも登場しない。
奇襲状態で上那須氏が滅亡してしまったため、この城が役に立つ場面がなかったのかもしれない。
この城が福原城の詰めの城であり、当時、既に存在していたことは間違いなかったであろう。
しかし、その城は今の姿よりは小規模であったのであろう。

今残る遺構は上那須家滅亡以後の戦国末期の城という感じである。
上那須氏滅亡後も、那須本領の北を守る拠点として、存続し整備拡張されたのであろう。
なお、福原要害の麓にあった福原城は箒川の南の高さ15mの河岸段丘城にあった城であり、福原橋の東側が城址に当たる。
しかし、この付近は民家と水田となり遺構はほとんど確認できない。
若干、宅地より低い水田が堀跡であったことを感じさせる程度である。

この付近のはずだが? 住宅のあるところが若干高い。郭跡?

佐久山城(大田原市佐久山)
 
大田原市から県道大田原氏家線を南下し、箒川に架かる岩井橋を渡った佐久山地区、佐久山小学校裏手が城址。
 佐久山小学校自体が館址であると考えられている。
 佐久山城は源平合戦で活躍した那須与一の兄である那須泰隆が文治三年(1187)に築城したと言う。

 戦国時代には佐久山氏が城主でしたが永禄6年に黒羽城の大関増高と福原資孝の謀略に遭って落城、その後は福原氏の居城になった。
 福原資孝の子の資保は大坂の陣での戦功を挙げ、佐久山城主としての福原氏の支配は明治まで続いたが、9000石程度の石高の旗本であった。
 城址は、佐久山小学校の南側の比高約30mほどの丘にあり、現在、御殿山公園となっている。

南北に並ぶ2つの郭があるが、どちらが本郭かは分からない。
南側の郭Tの方が郭Uより高く、郭T内からは郭U内が丸見えであるのでTが本郭ではないかと思われるが、郭Uの西側には、巨大な土塁があり、この郭が本郭なのかもしれない。

郭Tは背後に高さ4mの土塁を持ち、その裏に深さ5m、幅15mの堀切で南側の山と遮断される。
しかし、ここが本郭とすれば、堀切の南側に曲輪が存在してもよいと思われるが、曲輪のようなものはない。ただの山である。

 郭Uは50m×70mの大きさがあり、西には高さ4〜5m、幅7mの大きな土塁が70m程続き、西側の腰曲輪(西郭)は本郭土塁より10m程度下にある。
 郭Vは西郭と呼ぶが土塁は郭Tの西下と北側にあるだけで西側にはない。
西に虎口があり、西郭の下からは6m程の高さがある。
 郭Tと郭Uの間は堀切状となっているが、西郭から入る虎口を兼ね見事な枡形が作られ、堀底道を兼ねている。
 
西虎口を西側から見る。一段高い場所
が郭U西側土塁。
郭U土塁上から西曲輪内を見る。 郭U内から西側の土塁を見る。 郭U土塁上。かなり広く物見台が建てら
れるスペースがある。
郭U東下の本郭に登る路。郭U東側に
も曲輪がある。 
郭T内。公園であるが荒れている。 郭U土塁上から見た郭内部。 郭T、U間堀底から西郭Vへの虎口
郭T南側の深い堀切。 郭W東側の堀切。 郭W南側の50m続く横堀。 郭T、W間の堀切。

郭Uの東斜面と南側には腰曲輪がある。
 その下は公園入口であるが、谷津であり、かつては池があったと思われる。
 郭Tの東側には堀切を隔て郭Wがあるが、中央部が土塁状になっている。この郭で注目すべきは南側に長さ50mに渡り横堀が存在することである。
その南斜面は2段の腰曲輪があり、下は湿地である。
この場所は今は杉林であるが、かつては風が防げる南斜面であり、居住性はよさそうである。
戦国期の館はこの場ではないだろうか。
郭Wの東側には堀切があり、直径40mの郭を経て、佐久山住宅の地となる。
この場所も城域であったものと思われる。

中根館(大田原市(旧湯津上村)湯津上)
国道349号線を那珂川町小川方面から大田原市黒羽方面に向かうと侍塚古墳や那須国造の碑などの旧跡が集中する湯津上地区を通る。
ここは東を流れる那珂川水面からの比高が15mほどある段丘である。
対岸には大関城や金丸要害などの城がある。

国道沿い西側に湯津上小学校があるが、小学校の北西200mに水田を介して2,3軒の民家がある。
特に変哲もない民家であるが、この民家の北側にまわってみるとびっくり。
一部は崩されてはいるものの、高さ3mほどの土塁が北側から東側、そして南に回っているのである。

西側半分はすでに破壊されているが、もともとは大関城に似た1辺100mほどもある方形の館であったようである。
この館についての歴史は不明であるが、大関城などと同じ形式の中世城館であるのは間違いないであろう。
おそらく那須氏系の一族の居館であったと思われる。

南側に残る土塁。 北側に残る土塁はかなり破壊されてしまっている。 東側に残る土塁。堀は失われている。

佐良土城(大田原市(旧湯津上村)佐良土)

国道294号線を小川方面から北の黒羽方面に向かい、箒橋を渡った湯津上地区のやや北東側にある。
天正18年(1590)小田原の役に参陣せず、領土を没収された那須資晴が烏山城を退去して蟄居したという城である。
築城はこの時ではなく、既に存在していた館を整備したものと思われる。

那珂川西の河岸段丘上にあり、南に箒川が流れ、その支流の鳥取川と千城川が段丘を削って流れる地にある。
近年まで土塁と二重の堀が残っていたというが、遺構はほとんど湮滅状態である。
土塁跡の標識が建つ土塁もほとんど破壊され、かろうじて残痕が残る程度に過ぎない。
堀があるというが良く分からなかった。
一部残る土塁。 北東端の切岸。

根小屋館(大田原市南金丸字根古屋)
白旗城真南500m、黒羽の市街の西1.5kmの水田の中にある。
黒羽から国道461号を大田原方面に1.5km西に走り、金丸橋の三叉路を白旗城方面に北上し、相の川を渡った西側の民家が館跡である。
水田地帯の中に土塁で囲まれた民家があるので直ぐわかる。

土塁は民家の北側と少しはなれて南側にもある。
その間にあったと思われる土塁は失われている。
単郭なのか、二郭からなっていたのか分からないが、合計で東西80m、南北150m程度ある。
結構、規模が大きい館である。

ここは東側、那珂川方面に傾斜する扇状地であり、東側は切岸状になっている。
南が天然の水堀である相の川であり、南を除く周囲に堀があったようである。
周囲の水田が堀跡であり、今も窪んでいる。

正平年間(1346-70)、那須一族金丸氏の居館として築かれ、応永年間、大関氏が白旗城に入ると、金丸氏は金丸要害に移って廃館になったという。
しかし、金丸氏が去った後は、大関氏の家臣の館として使われていたと思われる。
(那須の戦国時代、栃木県の中世城郭跡 参考)

北西隅部に残る土塁 南側に残る土塁

小滝城(大田原市小滝字中城)
根小屋館の南を流れる相の川の上流、小滝地区にある。
県道342号線が相の川を越える東側に標柱があり、その付近が城址である。
昭和初期まで良好な状態で城が存在していたらしい。

しかし、現在はほとんど宅地化しており、民家の裏に土塁と堀があるだけである。
しかも、訪れたのがまだ秋、草の勢いが強く、藪で写真を撮っても何が何だかさっぱり分からない。

基本的には湿地を要害とした単郭の平地城館だったようであり、昭和初期まで残っていたのがその部分。
ここの字を中城という。主郭であったこの部分は、南北80m、東西25mくらいの大きさであったという。

相の川西側にを「外城」という地名があるので、戦国期には拡張され、複郭を持つ城であったと思われる。
城主小滝氏は、建徳3年(1370)、那須資藤の5男助信が興したという。
佐竹氏の攻撃を受けて落城したというが、その後、城は小滝氏に戻ったようである。
慶長年間、小滝氏はこの地を去り、廃城となったと言う。
(那須の戦国時代、栃木県の中世城郭跡 参考)

城址に建つ標柱、この付近が中城。 林の部分が中城の北端、土塁と堀がある。 西側から見た中城方面、手前が外城。